シオン通信
・第12号 2007年6月
与えもしないのに求め過ぎていたんだろう
大宮シオンルーテル教会
梁
熙梅
いつもなら、「ねえ、ママ肩が痛いんだけど、少しだけ肩もんでくれない?」と切に頼んでも、「え〜また?じゃあ、もんであげたらいくらくれる?」と言ってなかなか動いてくれない息子が、ある夜、頼まれてもいないのにわたしの肩をもみ始めたので、思わず「どうしたの?」と聞いてしまいました。すると、「いや、与えもしないのに求めてばかりいたな〜と思ってさ!」との返事。一瞬、この子の中で何か深刻なことが起きているのではないかととても心配になってもっと踏み入って聞きましたら、「今日さ、地球への歌を歌っていたら『与えもしないのに求めすぎていたんだろう』という歌詞に気づいてさ。」と言うのでした。
息子の話を聞きながら、人はあらゆるものに自ら直接触れてはじめて気づくものだと改めて思い、親としての今までの自分の姿勢を反省しました。「他者への思いやり」については、きっと言葉がわかるようになった頃から言い聞かせてきたことと思いますが、しかし、子どもが気づくのは親の言葉からではなく、自分に合った物事を通してだったのです。わたしは、子どもの視点を無視して、大人の視点を強いていたのでしょう。この出来事を通して改めて子どもの背丈になってみると、大人という自分の中にはすでに決められた形があったのが見えるのです。それに子どもをあわせようとしていたのだと、反省させられました。きっとこれからも、このようなことの繰り返しの中で、大人とはいえ子どもたちを通して成長を重ねていくことではないかと思います。ちなみに、我家では、肩もみ10分で10円と決まりです。これは子どもが見ている「どらえもん」というアニメから子どもが教えられたものです。つまり、「塵も積もれば山になる」という内容だったのですが、それまで「いくらくれる?」と言い返された言葉に対してわたしの頭の中には30分で500円とかの数字しか浮かべなかったのです。しかし、「どらえもん」では小さなものを大切にしていれば大きな喜びにつながると、そして主人公が実際そうできたのを見て、子どもは良しと決心がついたようです。わたしは、10円くらいは…と思って気楽に頼んでいますが、しかし、それが結構溜まるものですね。クリスマスになったら好きなおもちゃが変える楽しみで、この頃子どもは一生懸命わたしの肩をもんでいます。わたしの、テレビに対しするネガティブなイメージも少し変わりました。韓国ドラマは例外だったのですが。説教の後に地球へのテーマソングの歌詞が載っています。参考までに。
梅雨時期にじめじめした暑さに振り回されないで、皆さんが神さまの見守りの中で過ごされますようにお祈りしています。
|
聖書のみことば ルカによる福音書7: 11〜17 11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添 っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。 |
説 教
『もう泣かなくてもよい』
「マリアの子」というイエスさまに対する呼び方は偏見的な意味が入った呼び方でした。つまり、子どもはお父さんの名前をとって呼ばれるのが普通でしたから、「ヨセフの子」と言われるはずなのにそうは呼ばないのです。このようなことから考えるとき、マリアが当時の社会の中で受けていた精神的な苦労が想像できるのではないでしょうか。
日本だって、未だにシングルマザーという立場に置かれている女性たちに対して偏見的な目を向けていることは事実でしょう。経済的な部分では女性一人でも子どもを育てられるような状況にはなりつつあるものの、しかし、社会はどうしても男性の性を優先しようとしますから、もう一方の女性はその下で強いられた歩みをさせられてしまうのです。
昔、主の母マリアがおかれていた状況とまた、現代のシングルマザーたちが抱えている精神的な重荷とは少し異なるかもしれませんが、今日の福音書、ナインという町の一人の女性、かのじょはやもめでした。早くして夫を亡くし、一人で息子を育てました。やもめとして子どもを育てることは安易な社会ではなかったときですから、かのじょが抱えていたあらゆる面での負担が考えられます。経済的な面、精神的な面、さらに、宗教=父権主義のもとのユダヤ社会から来る女性差別。つまり、女性は、生まれたら父親の下で、結婚したら夫の下で、夫が死んだら息子の下で生きる者とされる時代的な背景の中で、ですから、かのじょにとって息子はあらゆる困難をも乗り越える力の源でもありましたし、だからこそ息子はかのじょ自身の生そのものでもあったと言えるでしょう。
しかし、その息子が若くして死んだのです。母親を一人にして残し、母より先に逝ってしまったのでした。死んだ理由はわかりませんが、確かなことは、今日はかのじょにとって大切な一人息子の葬儀の日であるということです。自分自身でもある息子が、今棺の中に納められているという事実です。この変えることの出来ない事実を、現実を、彼女は受け入れなければなりません。死を前にしている人間はなんと無力なものでしょう。自分自身のように愛する子どもであっても、その子を死から救い出すことはできない、これが人間の現実です。ですから、かのじょのこれからの息子のいない生は、息子と一緒に棺の中に納められたのと同じような生でしかなくなるのでしょう。
このとき、かのじょの周りには大勢の人が付き添っています。「その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」と聖書は記していますから、きっとかわいそうな親子、それだけ頑張ったのに結局は死んでしまったのね、という憐れみと慰めの思いをもって人々は集っているのでしょう。しかし、苦しみも悲しみも一緒にできるけれど、死の力からかのじょの愛する息子を救い出すことはできません。どれだけ切実に思ったって、結局は愛する者を死に渡すしかなかった人間の現実です。
このように、ナインという町は、死にいのちを委ねるしかなかった葬儀の列が並びました。町を出て墓へ向かうためです。ところが、ナインの町の葬儀の列が進む方向と反対側からナインの町に向かって入ってくる列がありました。イエスさまを先頭にして並ぶ列です。お墓へ向かう列と主の列がある時点で正面から向き合いました。すると、対面した葬儀の列の中からまずイエスさまの目に映ったのは、母親でした。聖書は、「主はこの母親を見て憐れに思い…」と書きます。イエスさまはかのじょのことを憐れに思った、そして言うのです。「もう泣かなくてもいい」と。ところが、聖書にはかのじょが泣いている姿はどこにもありません。かのじょが悲しかったのはもちろんのことでしょう。しかし、涙を流している姿は表現されていないのです。しかし、イエスさまにはかのじょの涙が見えたのでした。「もう泣かなくてもいい」といわれるこの言葉の中には人の目には見えない人の深いところの涙を拭い取る神のいやしの力が入っている、ということが含まれているということなのです。
話は替わりますが、皆さんの中でパッションと言う映画を観られた方は覚えていらっしゃると思います。パッションはイエスさまの受難物語ですが、イエスさまがあらゆる苦しみに出会わされる際に、その近くには必ずと言えるくらい母マリアが着いていました。主は、言葉に表すことのできない苦しみのただ中でもお母さんの様子を感じたら必ずマリアと目を合わせるのです。大祭司のカイアファの中庭にて尋問を受けられる際にも大勢の群衆の中から、主は母マリアを探し出します。ゴルゴタの丘を登られる際にも、担ぎきれない十字架の重さにつぶされながらも主は母マリアを探し出し、顔とあわせるのです。十字架の上でいのち耐えて死なれる際にも、イエスさまは最後まで母のことを思っていました。これは映画から感じたことですが、しかし、聖書の行間から見出すことのできないことがよく現されていると、わたしはそう思いました。
その意味からも、わたしは今日のナインの町の母親と息子の物語は、イエスさまの死と復活を先取りにした物語ではないかと思います。つまり、ご自分の死をこの一人息子の死から見出し、そして、残される母のことをやもめとされているこの母親から見出しているのではないかと、そう思うのです。だから、イエスさまは、この母親の深いところで流れている涙が見えた、一人息子を先に逝かす母の悲しみがどれだけ深いものなのかわかったということ。ですから、「もう泣かなくてもいい」と、人の深いところで流す涙を拭いとってくださり、かのじょの人生が涙にまみれての生にはならないように導くのです。
つまり、あなたの息子は死んだのではない。あなたが迎えている死は生きているものと死んだものとが完全に決別してしまうようなものではないから泣かなくてもいいと。
つまり、イエスさまは「もう悲しまないで」とはおっしゃいません。この母親は息子の死のためにとても悲しんでいます。けれど主は「悲しまないで」とは言わないのです。つまり、悲しむことができることは、生きていることの証拠であるから、生きているから人の死のために悲しむことも苦しむことも出来るのです。生きているから自分の人生が死することについても悲しむことができるのです。ですから、「もう泣かないで」、すなわち、「あなたの中には今の悲しみを耐え偲ぶ力が与えられているのだ、あなたは生きているのだから」と語っておられるのです。そうなのです。「もう泣かなくてもいい」とイエスさまが死を前にして悲しんでいるかのじょに向かって言われる言葉の深い意味は、「もう世間のあらゆることに振り回されずにあなたらしく、あなたがあなたとして生きるのだ!」といういのちの言葉なのです。
人はだれでも憂鬱を持っていると言われます。その程度がどれくらいかによって現れることに差があるだけで、皆がもっている病であると聞きます。わたしも経験することですが、しかし、気持ちが沈んでいるときに、「がんばって」とか、「早く元気になって」という言葉を聞くと、沈んでいる気持ちはもっと沈んでしまうようなことを感じてしまいます。つまり、そのままにして欲しいのに、何とかしてそのままの状態を変えようと親切にされる言葉が逆に重く感じてしまうのです。このことは、イエスさまが今日の母親とのやり取りの中で「もう悲しまなくてもいい」とは言わないのと同じことです。イエスさまは、「早く元気になって」「早く立ち直るように」とは言わないのです。かのじょが悲しむままにしておくのです。かのじょの中には今の悲しみを乗り越える力が潜まれていると確信するから、そのままにしておくのです。けれども、かのじょ自らがいやすことのできない心の深いところの涙、つまり死に負けるしかなかった絶望感、世間にあわせて諦めるしかない女性という人生の挫折感、自らの力では救い出すことのできない、人間の深いところの死の状態を生かしてくださるのでした。つまり、息子を生き返らすことによって。
葬儀の列の反対側から入ってこられ、その先頭に立つ方、主イエス・キリストがすでに棺の中で眠っている息子に向かって「起きなさい」と命令されたとき、死の中に眠っていた者は起き上がってものを言い始めました。主の言葉がナインの町に訪れていた死を超え、死を支配しておられるのです。主の言葉だけが人の深いところの涙を拭いとり、真のいのちを生きるようにさせてくださるのです。
彼女にとって泣かなくなるのは息子が生きていることです。死を超えるみ言葉を所有される主は、実際に棺の中にいる、愛する息子を生き返らせてくださったのです。お墓へ向かう人たちの足の方向を変えてくださいました。つまり、無限な力の持ち主、わたしたちのいのちの源でおられ、生きておられる方。この方が言葉を語ってくださる限り、死はナインの町はもちろん、私たちの生を覗き込んでくることはできない。覗き込んできたとしてもみ言葉が私たちとともにいる限り、み言葉によって死は陰府へと追い出されていくのだということ。
人は誰もが死ななければなりません。主の言葉によって生き返った息子も、主に憐れみを受け、心の深いところの涙を拭い取っていただいた母親もいずれのときには死ななければなりません。わたしも、皆さんも、何れの時には必ず死ぬのです。死なないでいつまでも生きられる人は誰もいません。しかし、大切なことは、どう死ぬかです。つまり、自分を造ってくださり、いのちの源でおられる神さまとの関係の中で死ぬか、それとも、神さまとは何の関係もない人のように死ぬか、このどちらかによってわたしたちのこの世での生き方はカラット変わってくるのではないでしょうか。つまり、生きている人として生きるか、死んだ人のように生きるか、生き方が変わってくるのです。
今日の聖書の、ナインの町の息子をはじめ母親も町の人たちも、息子の死からの生き返ってきた出来事を通していのちの源でおられる方に出会いました。死を支配しておられる方に出会ったのです。つまり、この方との出会いは、この世に生きる自分の力がちっぽけなものでしかないことを知る機会でありました。死の前で屈伏するしかない、死という限界をもって生きるしかない、そんな自分に出会ったのです。けれど、ちっぽけでどうしようもなく、ただただ死に屈伏した人生を送るしかない、そんな人生のただ中に、神さまが介入されるとき、状態はまるっきり変わっていくということを知らされたのです。み言葉が人の人生のただ中に語られるとき、死をも語られたみ言葉に従うということを体験したのです。見たのです。
今や、ナインの村の人たち、母親をはじめ一人息子も、みなの人生は、死をも支配しておられる神さまに介入された、憐れみを施し、心の深いところの涙を拭いとってくださる方に出会い、きっとこれからは満たされた人生を送ることでしょう。いずれかの時には死ぬ身であっても、しかし、もはや、死はそのままの死ではなく、イエス・キリストの中においての死へと変わったということ。つまり、十字架の死を成し遂げ、復活のいのちを勝ち取った方の中においての死であるということ。ですから、私たちの死もお墓へ向かうのではなく、いのちに向かう死であるということなのです。
主は皆さんとわたしに、悲しまなくてもいいとはおっしゃいません。苦しまなくてもいいともおっしゃいません。「もう泣かなくてもいい」、「もう、世間のあらゆることに振り回されずに、あなたらしく生きるのだ、わたしの中であなたとして生きるのだ」と語りかけておられます。つまり、私たちが生きている者であり、生き続ける者であると、そう認めておられるのです。この方の豊かさの中で憐れまれている私たちは、今週、社会からの偏見によって歪められ、曲がった人生を強いられている隣人に語り掛けたいのです。「もう泣かなくてもいい」と、「あなたの深いところの涙を拭いとってくださる方がおられる」と、あらゆることに振り回されないで、あなたらしく、あなたのものを持って生きるように、導く者でありたいです。
お祈りします。
私たちのいのちの源でおられる神さま。
わたしたちが置かれている状況がどれだけ苦しい状況であっても、主はそこからいのちを見出し、生きる力を見出してくださいます。愛する息子を亡くして悲しんでいる母を憐れに思い、慰め、み言葉を語ってくださったように、今わたしたちにも主はみ言葉を持って訪れ、置かれた状況に負けずに生きるように、み言葉を語ってくださっていることを知らされました。たとえ、死んだように思われる状況の中でも、それに打ち勝ち生きる希望の光が必ず注がれると語ってくださったみ言葉を携えてわたしたちの生きる場へと帰ります。私たちが、今いただいたみ言葉を独り占めするのではなく、この世の仕組みの中で苦しんでいる隣人に、大切な者を亡くして悲しんでいる隣人に語りかけ、分かち合い、ともに生きる者として主を証しする歩みができるように、一人ひとりを導いてください。私たちの周りからあなたを褒め称える讃美が流れる、そんな証ができるように、どうぞ、わたしたちの生をあげてあなたの証し人としてください。
私たちのいのちの源でおられる主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
アーメン。
地球へ…
ねえ、答えはないよ
今日の景色を忘れないようにとぼくは息をとめるんだ
昔の経験に足を取られて在りもしない壁を自分で作ってたんだ
大事にしすぎると壊れていきそうで
かけがえのないものを作るのが怖かった
僕たちはこの世界に永く生き過ぎたのかな
ねえ、答えはないよ 今日の景色を
忘れないようにと僕は息を止めた
与えもしないのに求め過ぎていたんだろう
時に過ちが僕の心を試す
見上げた夜空叶えたい未来を開く瞳に強く映し出す
昔の自分に偶然逢ってあの頃を思い出してたんだ
明日を思い浮かべながら寝静まった町の
ベランダから見る景色は同じなのに
生きるほどに見えなくなる素直な本当の気持ちが
綺麗なものばっか並べても悲しくなるだけだった
ねえ、足りないものを嘆くだけの僕らは
創ろうとはせず膝を抱えてるだけで
この先になりたい自分を描いたら
今するべきことが見えるから
太陽の呼ぶ声に目が覚めた昨日の赤い海を
飲み干して青に変えていく
きらきら光る時間の針の上
風に逆らう雲を明日の自分に重ねて行く
遮ぎるものが多すぎるんだよ
ここに立ってるだけじゃきっと
ねえ、答えはないよ今日の景色を
忘れないようにと僕は息を止めた
与えもしないのに求め過ぎていたんだろう
時に過ちが僕の心を試す
5年先なりたい自分を描いたら
今するべきことが見えてくるだろう
見上げた夜空叶えたい未来を開く瞳に強く映し出す
第3号 2006年9月 第4号 2006年10月 第5号 2006年11月
******************************
パパのような大人になりたい
大宮シオン・ルーテル教会
梁 熙 梅(やん・ひめ)
「ママ、僕はね、パパのような大人になりたいと思ってるのさ」。
これは、小3の息子からある日の夕食の時に出された言葉です。わたしは、正直にはっと言う思いでした。同時に、どのようなところがパパのようになりたいと彼に思わせたのか、すぐ聞きたくなりました。すると彼は、「二つのことなんだ。一つは、僕は、今は、タバコが嫌いだけど、大人になったら吸いたくなるかもしれないでしょう。だから、パパのようにタバコ吸わない大人になりたいのさ。もう一つは、結婚のこと!パパのようにきれいな人と結婚したいからさ」。はっとする思いで息子の話を聞いていたわたしは、ほっとさせられることと同時に涙目になってしまいました。「パパのようになりたい」と言っている言葉の中にはママのこともしっかり認められていたからです。子どもと二人暮らしが始まって7ヶ月が経ちました。二人暮らしは少しさびしいどころもありますけれど、二人の暮らしの中にパパの存在も忘れられていない、離れているけれど一つの家族であるということが子どもの心の中にしっかり位置づけられているのだと、感じたときでした。
わが子だけではなく、ともに育っている世界の子どもたちの心が明るく健康で育てられることを祈っています。特に、今、日本の教育界においては大切なことが問われています。この問い掛けに、政府の教育関係者や学校の現場の教育者たちは逃げることなく真正面から向かい合っていただきたいのです。イエスさまは、子どもたちを迎え入れ、大人たちの間に立たせて祝福してくださいました。子どもたちが大人たちの間で明るく、健康に豊かな者として育てられることを願っておられるのです。子どもたちと関わる私たち大人の眼差しが常に問われていることを生活の場でも気づいていきたいと思います。いのちを失うまで犠牲を強いられていた子供たちとご家族の上に神さまからの慰めがありますように、祈っています。
【ワンポイント知識】 「盟神探湯」(くかたち、くかだち、くがたち)
日本の古代における審判法で、事の正邪を決めるために神に誓ったのち、熱湯の中を手で探る呪術的な裁判法。正しいものは手にやけどを負わないが、邪のものは手にやけどを負い、手がただれてしまうと言われる。後に、盟神探湯による裁判は行なわれなくなり、盟神探湯は神前に拝する時に身を清めるために沸かす湯の意味となった。鉄釜で熱湯させたお湯の中に笹の束を入れ、上下に振って背中に熱湯を浴び、残った熱湯を氏子らに振りかけて厄払いをしている。今でも、釜で沸かした熱湯を笹の葉などで参拝者にかける湯立などの神事はこの意味の盟神探湯に由来するもの。「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照」 <詩編7編説教参考のために>
聖霊降臨後第22主日 2006年10月22日
聖書のみことば
マルコによる福音書10章17−31節
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
説 教 『あなたに欠けているものが一つある』
「いったい誰が?どのような人が救われるのだろう?」これは、昔から人々の関心テーマの一つでありましたし、今もなお議論が重ねられています。
また、聖書は人間が救われることに対してどのように語っているのだろう…信じる者だけが救われると語っているのだろうか。それともすべての人が救われると語っているのだろうか。いったい、どちらなのだろう?
このような問いに対して皆さんはどのように思っていらっしゃるでしょうか。
今日、福音書の日課の中に登場する一人の金持ちの男。彼は、小さい頃から神さまを信じて、律法の中に定められているものはすべて守ってきました誠実な人でした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」と戒められている十戒も、すべて守ってきた完全な人です。その彼が、今日、イエスさまの前に現われて、イエスさまにお願いの念を申しています。
「善い先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
小さい頃から、聖書に定められているものは何もかも守ってきた彼に欠けていることが一つありました。それだけ誠実に掟を守り、信仰者として完璧な人生を営んでいるはずの彼に、欠けている部分があったのです。永遠のいのちを受け継いでいるという実感がない!つまり、心が満たされないのです。自分が救われているという、救いの確信がありませんでした。
「善い先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
彼は走りよってイエスさまの前に現れては、慌しく願っています。「わたしが何をすれば救われるのでしょうか」と言う。今の自分は何でも出来る環境におかれているという、自信満々さから出てくる問いかけでしょうか。それをイエスに教えてもらいたいと。
そんな彼に対してイエスさまから返ってきた答えは、「あなたに欠けているものが一つある」ということでした。このイエスさまのお返事の中で語られる「欠けているもの」と言う表現は、彼が自分に欠けている一部分を求めて、補うような形で満たそうと、イエスさまに願っている「欠けているもの」とは遥かに違うものです。むしろ、彼が求めることとは正反対のものでした。
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
男は大きなショックを受けたでしょう。イエスさまのお答えを聞いた男は、「悲しみながら」イエスさまの前を「立ち去った」と、福音書が記しているからです。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」このことは、今の彼には実行できるようなことではなかったのでした。
しかし、このことは、彼のみならず、多くの人にとって実行できないことです。自分のもっているものをすべて売り払って貧しい人たちに施すこと、これは誰にでもできるようなことではないのです。一生懸命節約しながら設けた財産を売り払って貧しい人たちに施す…先祖代々から受け継がれた財産をすべて売り払って貧しい人々に施すということ…実際に難しいことですし、出来るとしても、実践に移すまでどれだけ葛藤を強いられることでしょうか。
ところが、「悲しみながら」主の前を「立ち去った」この男が、帰ってからどのようにしたのか、聖書は教えていませんが、文脈から考える時に、たぶん出来なかっただろうと考えられます。けれど、この男性は誠実な人でしたから、今自分がもっている財産に満足し、神さまを信じる自分の今の信仰に満足して、その生活に安住しようとしませんでした。自分の中から問題意識を持っていました。この世の誰にも負けないくらいの財産を持っていても、小さい頃から定められている律法をすべて守って神さまを礼拝してきたけれど、しかし、自分の中にこれだと言う確信がない、救われているという確信が持てない・・・自分の内面から浮かび上がってくる問い掛けに、彼は素直に向き合おうとしているのです。
「永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
根本的なこと、イエスさまの問いかけと彼の問いかけにズレがあるにせよ、彼は今、自分自身の中から生じてくる問いかけをイエスさまの前に持ちかけている。
このようなことからも、この男性がいかに神さまとの関係に誠実な歩みをしているかがわかるでしょう。
しかし、それだけ誠実は彼が、イエスさまから語られたお言葉を耳にするや否や、彼は「悲しみながら立ち去る」しかない、人間でした。彼に出来ないことを命じられたからです。考えられないこと、本当は、聞きたくないことが自分の耳に聞こえたからです。
「悲しみながら」イエスさまの前を「立ち去る」しかなかったこの男性は、自分に欠けているある一部分を補おうと、そのためには何をすればいいのかとイエスさまに尋ねていたのです。このことは、彼の誠実さであり、それが彼にとって欠けているそのものでした。自分の内面の中の一部分、自分の持っているもののある一部分が欠けている。そこを補いたい!それを補うためにイエスさまに聞く人間の姿、傲慢な姿です。救いの確信を得ることは、欠けてしまったお茶碗の一部分を補うような形で得るものではないからです。ですから、イエスさまは確かな道を、具体的に教えられたのです。
「行って持っている物を売り払って貧しい人々に施しなさい。それからわたしに従いなさい」と。
しかし、彼は、「悲しみながら立ち去る」しかなかった。一部分を補うために願っていたことが、すべてを失う羽目になっちゃったからです。
イエスさまはこの男性に全財産を放棄するように命じられました。これは、イエスさまがこの男性にだけではなく、すべての人に向けて語られるメッセージです。この男性にとっては財産でした。わたしにとっては何でしょうか。皆さんにとっては何でしょうか。人によって違います。その人にとって、今、イエスさまに従うために、妨げになっているもの、それは何だろう…それが、今、その人にとって不必要なものだということ。
つまり、財産を放棄すれば救いが得られるということではないということです。救いを得るために財産放棄ではなく、イエスさまに従うことを妨げられているものがあるなら、それが不必要なものであって、財産があるからその人は救われないという意味ではありません。または、財産がなく貧しいからその人はすぐ救われているという意味でもありません。どのようなものであれ、今、わたしにとって、あなたにとって、イエスさまに従うことを妨げているもの、それが捨てるべきもの、必要とされている人々に譲って具体的に確かな道を歩みなさい、ということ。
不必要なものは人を傲慢にさせ、救いも少し努力すれば得られるもの、と言う風に考えてしまうのでしょう。
「あなたに欠けているものが一つある」。これは、自分の中に、または自分のもっているものの中から救いの拠り所を見出そうとすること。そこに生活の土台をおいて、そこを拠り所として生きようとしているもの、それを断念して、神さま以外の何ものからも救いの確信を得ることを断念して、すべてを神さまに集中せよ!ということ。
この男性はできませんでした。持っているものと救いとを妥協させていたからです。もっているものもそのまま欲しくて、救いも得たい…あれも、これもすべて自分の手の中に入れたい…
つまり、自分自身が神さまのように完璧なものでありたい…この男の誠実さはこのことを教えています。自分に欠けている一部分を誠実に満たそうとしている彼は、イエスさまからショックが与えられた。
「あなたに欠けているものが一つある…」
このイエスさまからのショッキングな語りかけは、「あなたは神を神として礼拝していない、あなたが神になるために、真の神、善き方として礼拝されるべき神を、神として礼拝してきたのではない、自分自身が満たされるために用いりやすい神をつくり上げ、それに礼拝してきたのだ」という問いかけだったのです。
ですから、イエスの前に、急いで、走りよって、自分が言いたい様にだけ言って、語られたことにはショックを受けるしかないのです。聞く耳を持たないから。ですから、「悲しみながら立ち去って」行くしかないのです。イエスさまの語られることばが理解できないから、「悲しみながら立ち去って」行くしかありませんでした。
このようなイエスと男性とのやり取りの後に弟子たちはイエスさまに尋ねました。
それでは、「誰が救われるでしょうか」と。この弟子たちの質問にイエスさまから出された答えは、「人間には出来ることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。
これは、誰が救われるだろうか…というわたしたちの問い掛けに対する答えです。つまり、人を救うのは神さまであること。人間が救われることとは、人が努力して手に入れることでも、持っている財産を使って買えるようなことでもないということ。つまり、救いは神さまにのみお任せされていることであると言うことなのです。
もし人が、自分自身の救いや隣にいる人の救いに関しても、自分の見解を持って正しく語ろうとするなら、それは神の領域を犯していることのほかないのでしょう。今日の金持ちの男と同じように、自分の中に欠けている一部分を補うためにイエスさまを通して、神さまの領域を犯して、自分が神のように完璧になって、救われるか救われないかさえ自分が決めようとするなら、そのために信仰を持ったり、礼拝に出席するのもそのためであるなら、その人は神の座を狙って、虎視眈々とその機械を狙っているのでしょう。
イエスさまからわたしたちに命じられていることは、「あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従いなさい」ということしかありません。つまり、「イエスさまに従う」これ一つだけです。イエスさまが歩まれた道、貧しい人々と共に生き、貧しい人々のために十字架で自分を捨てる道、この道を歩むことがわたしたちに求められているのみです。救われるか救われないか、あなたが、そしてわたしが永遠のいのちを得ているかいないか、それは神さまが決めることであるということ。それに不必要なものがあったら、わたしたちはそれを捨てる作業をするのみと。わたしたちはただ、神さまの救いの業に加えられていると、希望を見て、そこに信仰をおいて歩むだけしか、できないのです。
「あなたに欠けているものが一つある」と語られるイエスさまの言葉の意味を深く噛み締めながら、今週も自分の中の、また自分が持っているものの中から不必要なものを捨てる作業をともにしていきましょう。そして、イエスさまに従って、イエスさまが歩まれた道をともに歩みましょう。
水曜夕礼拝
聖書のみことば
詩編7編
シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者からだれも奪い返し、助けてくれないのです。わたしの神、主よ。もしわたしがこのようなことをしたのなら、わたしの手に不正があり、仲間に災いをこうむらせ、敵をいたずらに見逃したなら、敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき、わたしの命を地に踏みにじり、わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり、憤りをもって身を起こし、わたしに味方して奮い立ち、裁きを命じてください。諸国をあなたの周りに集わせ、彼らを超えて高い御座に再び就いてください。主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと。あなたに逆らう者を固く立たせてください。心とはらのわたを調べる方、神は正しくいます。心のまっすぐな人を救う方。神はわたしの盾。正しくさばく神。立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし、弓を引き絞って構え、殺戮の武器を備え、炎の矢を射かけられます。御覧ください、彼あらは悪をみごもり、災いをはらみ、偽りを生むものです。落とし穴を掘り、深くしています。仕掛けたその穴に自分が落ちますように。災いが頭上にあり、不法な業が自分の頭にふりかかりますように。正しくいます主にわたしは感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います。
説 教 『人の心とはらわたを調べる方』
国によって異なると思いますが、日本の場合、犯した罪に対してくだされる最も重い刑は「死刑」でしょう。皆さんは日本の死刑制度についてどのように考えておられますか。
「死刑制度」に関してはいろいろと議論があります。人間が人間に対して「死刑」を下す資格があるだろうか…それはいわゆる「殺人」と同じことだという立場から、死刑制度廃止を主張する立場の人。しかし、人の命を奪うほどの重い犯罪は「死刑」に処せられて当たり前といって、死刑制度廃止に反対する立場の人がいます。つまり、
このように、「死刑制度」については以前から長い時間をかけて議論してきたことですが、未だに日本では「死刑制度」が行なわれています。
罪を犯した者に対して罰を与えること、つまり、人間に同じ人間を裁く資格が与えられているということ、これが制度化されているということはおかしいことかもしれませんが、しかし、制度化されていくことは、人間が人間を裁くためにではなく、人間の暮らしの秩序を保つためにはどうしても制度化されざるを得ないのでしょう。
わたしは今の日本の「死刑制度廃止」を訴える立場です。その代わりに、今の死刑制度に当てはまる犯罪は、「終身刑」に処せられればいいと思っています。「終身刑」の方が「死刑」より重い罰であると思いますし、犯したことに対して自分を振り返るためにも、人のいのちの大切さを訴えるためにも「終身刑」は適切な刑罰だと、思っています。
今日の詩編7編の背景にも似たようなことがあります。
今日の詩編は、エルサレム神殿におけるヤハウェの裁判が、その背景となっています。自分の潔白さを主張しながら、自分に対して刃向かってくる相手を裁いてください、神さまが審判を下してくださいと、切に求めている内容です。ですから、今日の詩編の背景には神殿の中で主なる神さまの審判が行なわれており、それが正しく下されることを信じている者が今日の詩編の祈り手であるということがわかります。
昔、イスラエルの周辺の古代メソポタミアでは、何らかの罪を犯した者として疑いがあるけれど、自分の潔白を主張する者がいれば、その被疑者を川へ沈めるような法律がありました。川へ沈めて浮かび上がればその人の罪の潔白さは認められます。沈んだままになりますと、やはり罪を犯していたのだと判断をしていたようです。
旧約聖書の民数記にも似ている記事があります。民数記5:11-31。
これは、男性のために立てられた律法ですが、当時の周辺地域で行なわれていたことがイスラエルの人たちの暮らしの中に取り入れられ、イスラエルの人々の法律となっていくようになったものでした。
この他では、イスラエルの十二部族が与えられた土地を分ける際に用いられていたくじ引きが同じ背景をなしています。ヨシュア14:2、ミカ2:5などに書かれていますが、くじを投げて当たったところが自分たちが住む領域となります。
このようなやり方で物事を決めていくのは、人間の中にあるものを人間は探ることが出来ないから。または、一つの部族にとって最も相応しい土地、その人にとって相応しいものとなるところを知るのは神さま一人しかいらっしゃらない、ということから人間の内面を探ることや大切なことの決め手を、このようなやり方に任せていたのです。
昔、日本にも似たことがありました。
熱湯の中に手を入れて罪の有無を判別するやり方です。神社の儀式の中で行なわれていたようです。今も少数の神社ではこのような背景を持つ儀式が身を清めるような意味合いで行なわれているようです。
このような昔のやり方が旧約聖書の中にも記されるようになり、詩編の中でも同じ背景をもとにして、祈り手は自分の潔白を神に訴えているのです。
今日の詩編7:10の後半から見てみますと、このようなことが書いてありました。
「…心とはらわたを調べる方、神は正しくいます。心のまっすぐな人を救う方、神はわたしの盾。」
「心とはらわたを調べる方…」
この表現は、エレミヤが11:20、12:3で、いのちを奪われ、敵たちに追うわれる際に神さまに訴えて祈る祈りの中で用いられていた言葉ですが、ヘブル語の独特の表現です。
ヘブル語は酷い苦しみを表現する際によく臓器に当てはまる単語を用います。今日も、心に当てはまる言葉の原語は心臓に当てはまる言葉です。「はらわた」と訳している新共同訳の言葉は「想い」とも訳せる言葉ですが、これの原語は「腎臓」に当てはまる言葉です。
このように心臓や腎臓といった臓器に当てはまる言葉を用いて表現することに大きな意味があるのですが、これらの臓器がどのような動きをしているのか調べることが出来る神さまに、この詩編の祈り手は訴えているのです。
というのは、それだけ自分が潔白であるということ。ですから、神さまに、わたしの中で考えていること、内蔵の動きさえもご存知の方に見ていただいて、自分が潔白であることを裁いてくださるようにと、神さまに自分を委ねて祈っているのです。
つまり、先ほど申しました昔のくじ引きや苦水を飲ませて罪の有無を調べていたやり方も、実は、迷信的なことのようであって、しかし、これらのやり方の向こう側におられるのは、人の内面を調べることが出来るのは神さまお一人しかいらっしゃらないということを表しているのです。人が人の内面を調べて、本当の正しさ、真実を見つけることはできないと言うこと。たとえ、それが自分自身であるとしても、自分の中にあるもの、心の動き、心臓や腎臓の動き、それを通して現れる自分の思いをすべて知り、表現することは不可能であるということなのです。
このような神さまへの訴えが礼拝の儀式の中で行なわれていたのです。エルサレムの神殿の祭儀の中で、神さまに自分の内面を裁いていただく、自分がこれだけ潔白であることを調べていただくのでした。
わたしたちはこの詩編の祈り手を通して、神さまを礼拝するこの礼拝がどれだけ大切なことなのか、知らされるのです。神さまの前に自分の内面を調べていただくことを通して、わたしは、わたし自身も知らなかった自分を知らされ、本当の意味で確かなものとされていくのだと言うこと。
わたしたちの礼拝の本来の求めるところはここにあるのではないでしょうか。習慣的に、礼拝の日だから教会へ行くのではない。
わたしの中で動いている根深い罪の根性が、本当の自分を見えないようにしてしまうのです。罪人でありますから。わたしも知らなかったわたしがわたしの中に実際いるということ。それを知らせてくださるのは神さましかない。主なる神さまだけがわたしの心の思いを調べ、わたしをわたしらしくいさせてくださるのだと言うこと。
もっと申しますと、自分でもどうすることも出来ないこのわたしを、神さまが知っていてくださり、わたしにとって最も相応しい歩みが出来るように導いておられると言うこと。わたしが食事をするときにも見えない姿をしてともに座ってくださり、わたしが誰かとお話しするときにも、静かにその対話に耳を傾けておられる方。その方が、わたしの人生の歩み、どれだけ細かいことにせよ、関わっておられることを信じる信仰。今日の詩編の祈り手は私たちにその信仰を教えておられるのではないでしょうか。
祈ります。
私たちのはらわたをも調べ、私たちのいのちが今どのような状態にあるのか、本当の意味で自分を大切に歩んでいるかどうかを調べておられる神さまに、感謝をささげます。私たちはすぐ目の前のものを頼りにし、それが自分にとって本当は良くないことにもかかわらず、それを知らないわたしたちはそれに依存して生きることを喜びとしてしまいます。私たちが、私たちにとって大切なものを生かす歩みが出来ますように。自分に与えられている神さまからのいのちを輝かして生きる、信仰者としての歩みができますように、私たちの心の目を開いてください。主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
もうすぐ紅葉の時期ですね
大宮シオン・ルーテル教会
梁 熙 梅(やん・ひめ)
あっという間に9月が過ぎてしまいました。もう少し暑い日が続くのかと思っていたのにすぐ秋になってしまいました。今年の夏は来るのも遅かったけれど、去るのも早く、嬉しいやらもう一方では寂しい思いです。このような季節の変わり目を迎えて、皆さんが神さまの御守りの中でお過ごしのことと信じております。
大宮教会では9月より水曜夕礼拝を始めました。毎週の水曜日の夕方7時に集まり、みことばに耳を傾けることに、日曜日とはまた異なる雰囲気を味わっています。夜の静けさの中で聞くみことばですから、同じみ言葉なのに違った感じで受け止められるのです。皆さんも、どうぞ、私たちの教会の近くまでいらっしゃったときには自由にお立ち寄り下さい。
10月から始まる英語学校の二学期の受付を9月に行いましたが、一学期より生徒の数が少し増えたスタートになりそうです。近所の方々が英語を学ぶチャンスを通してみ言葉に触れる機会となることを、祈っています。
10月9日には北海道の旭川教会で全国伝道フォーラムが開かれ、当教会からわたしを含めて三名が参加します。旭川教会は今年新しく建て直し、新しい宣教ヴィジョンを立てています。この旅、全国の教会が旭川教会へ集まることが出来ることを嬉しく思い、楽しみにしています。よき交わりと学びのときとなることでしょう。
夏が短かった分秋が長くなることでしょう。彩る季節を私たちにくださった神さまの恵みをこの季節にたくさんいただいて、この秋もみ言葉にひとまわり肥えた者になりたいです。
【ワンポイント知識】 ミクタム
詩編16、56〜60編の文頭に書かれていて、その正確な意味は不明となっていますが、語源を辿って「黄金の宝」と推測してきた言葉です。最近は「贖罪の詩」「隠れた祈り」とも解かれています(『詩編の思想と信仰T』月本昭男、新教)。8月に行なわれた関東地区サマーキャンプに招かれた小阪忠さんが所属しているミッショングループが「ミクタム」と呼ばれる団体でした。大宮教会では9月から始まった水曜夕礼拝で詩編を続けて読んでいくことにしています。礼拝の中で旧約聖書から聞く機会はそれほど多くないことでしょう。詩編は苦しみに出会った詩人の祈りが私たちの置かれた苦難の状況を代弁しているものとしても親しいものですし、文学作品としても優れたものです。
聖霊降臨後第14主日 2006年9月10日
聖書のみことば
イザヤ35章1−3節
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
ヤコブの手紙1章2−18節
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
マルコによる福音書7章24−30節
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
説 教 『砂漠に咲く花』
今日は関東地区の交換説教と言うことで皆さんと礼拝を守ることができましたことを嬉しく思っています。まだ神学生だった頃、関東婦人の集いが六本木教会で開かれた時にここで説教させていただいた以来です。
今日は一人の母親が病気にかかっている子どもを病気から救うためにイエスさまに一所懸命訴えているところが、皆さんとわたしが分かち合う福音書の日課となっています。この頃の世界の状況から考えるとき、なんと愛おしい姿なのかと思いながら説教の準備をしていました。
自分が産んだ子どもを虐待してしまう現実やまだ小学生の子どもたちが自分の背丈くらいの銃を持って戦争の場へ生かされている現実を前にしているからです。そして、大勢の子どもたちが今も武力の下でいのちを落としている現実を迎えているわたしたちに、今日のこの物語はどのように理解されていくべきだろうかと、考えさせられました。
今日の福音書の母親はユダヤ人ではなく、ギリシア人で、シリア・フェニキアの出身です。というのは、ユダヤ人ではない彼女がユダヤ人である男性の前に積極的に近づいていくことは、当時のイスラエルの社会では許されない行動でした。イスラエルの中では、ユダヤ人=ユダヤ教ですから、宗教が異なるということで国が違う異邦人を偏見的な目で見ていました。ですから、彼女がイエスさまの前に進み出て願いことを言うことは、ユダヤの社会の中にはられている異邦人に対するレッテルを無視した、非常識な行動でした。
これだけではなく、彼女はもう一つユダヤの慣習を破っています。家の中の問題を外へ持ち出す時の役割は男性が担うべきことでありました。何週間前に聞きました箇所ですが、マルコ5:21から書かれているヤイロという会堂長が娘の病気を癒すためにイエスさまのところに来ている話からもわかりますように、家の中のことを外へ持ち出すときの役割は男性が担うべきことでありました。
このようなイスラエルの慣習からみるとき、この母親は、重ねてやってはいけないことをやっているのです。ユダヤ人の男性の前に異邦人の女性が進み出て、家庭内の問題を打ち出しているこのことは、イスラエルの社会から十分批判されるに値することでありました。マタイにも並行して同じ記事が記されていますが、主の弟子たちのこの母親への対応の仕方が非人間的な扱いであることが良くわかります。当時の偏見的な社会認識がそうさせていることだと思いますが。
しかし、わが子が重い病に取り掛かり苦しんでいるのに、このような宗教や民族の違いなど考えてゆっくりしていることなどできない。子どもがこの苦しみから癒されるのなら、どんな侮辱的なことをも受けいれられる覚悟がこの母親にはもうできているのです。どんなに力強い勇士さえ勝つことのできない、母親の強さです。
母親はイエスさまの前に進み出て願いました。
「わたしの娘が病気で苦しんでいます。どうか、あの子の病気を治してください」。
ところが、意外な返事がイエスさまから返ってきました。
「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
イエスさまが彼女のことを小犬として退けているのです。これは、訴えている人の全人格を無視するような言葉です。彼女の体に流れていた血が血管から吸い取られるような、どこかへ去ってしまっているような、冷たい言葉でした。
「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
長い間守ってきたという慣習、また健康な人を中心に作られた社会の常識たるものは、すべての人に当てはまることではありません。今日のこの母親のように、偏見を受ける側にいる人にとって慣習や常識は、いのちを失う武器とさえなりうるからです。
「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
この一言が彼女に与えた衝撃がどのようなものであったのかは聖書には記されていませんが、彼女のこの後の訴えから、この言葉がどれだけこの母親のこころを武装させたのか、イエスさまの口から出てきたこの言葉のゆえに自分の命さえ差し出すような強い情熱がわきあがってくることが彼女の再び挑戦している姿から良くわかります。
「主よ、しかし、食卓の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。
・・・・・・・・・
そうです。イエスさまが言われるとおり、わたしは、わたしの娘は小犬に過ぎないものです。まさにそのとおりです!けれども、主よ、小犬でも食卓から落ちる子どものパン屑くらいはいただくことができるのではないでしょうか・・・・パン屑でいいのです。それだけあればわたしの娘の病気は治ります!
「それほど言うならよろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
今、彼女は、この世でもっとも幸せな母親になりました。目に入れても痛くないほど愛するわが子のいのちが新しく生まれ変わったのです。代わりに、娘の代わりに苦しめることなら代わりに苦しみたいと、苦しんでいる娘の傍らでどうしようもできなかった母親の祈りが、訴えが今イエスさまを通して効かれたのでした。
世間の目を意識することを止めて、周りからは社会的に非常識なことだとさえ言われても、民族間の差別意識や宗教観の違いを超えて、彼女は本当の大切なもの、生きるべきいのちを苦しみから新しい方法へ取り戻すことに、自分自身をかけたのでした。イエスさまの前で訴え、イエスさまを通して一瞬は挫折も味わったけれども、しかし、同じくイエスさまが癒してくださったのです。このことは、イエスさまが彼女のいのちかけの願いにご自分のいのちをかけてくださったということ。民族を超え、宗教を超え、何より今生きているものが新しいいのちを持って積極的に生きられるように、おかれた苦しみから救い出してくださったイエスさまは、ユダヤ人の一人の男性ではなく、まことの人間でありながらまことの神さまなのです。いいえ、母親と娘だけではなく、この様子をずっと見ている弟子たちにとっても救われる思いの中で生きられるようにしてくださった神さまなのです。そして、今、わたしたちがこの物語から自分を照らし合わせて、この物語がわたしの救いの物語となることを導いておられる神さまなのです。
このフェニキアの女性、母親は、以前は砂漠に生きるような人生でした。咲くはずのないところで花を咲かせようと、イエスさまと自分との間にある熱い壁をたたいたのです。周りの熱い視線にも耐えて、イエスさまの前に徹底的に低き者とあり続けることによって、イエスさまを通して、たったこの方のゆえに、死を前にしていた、愛するわが子に新しいいのちが与えられるようになった。
わたしたちは、この女性の姿に自分の姿を重ねることができるでしょう。人には言えない、人に言ったところでどうにもならないことをかかえて眠れない夜を過ごす私たち。病が、老いが、わたしをこのまま死へ導いてしまうのではないだろうか…このまま、苦しみをかかえたままこの生が終わってしまうのではないだろうか…わたしが、わたしの愛するものが、このまま挫折したまま立ち直らないならどうしよう…迎える日々が不安でどうしようもできない私たち。
しかし、イエスさまは、ご自分の前に進み出て訴えているフェニキアの女性を、彼女のすべてを受け止めてくださいました。彼女の娘の病、彼女の心の中の不安、彼女がいのちをかけて訴えている母親として子どもを愛することなど、主がすべて受け止めてくださったのです。
同じように、わたしたちが抱えている多くの不安や悩み、苦しみを、それのゆえに耐えない祈りのわたしたちの日々を、イエスさま受け止めてくださるのです。いいえ、わたしのこの切なる祈りにイエスさま感動しておられるのです。
わたしもそうですが、人は、健康なときには、いのちに対する考え方も適当です。いつまでも元気でいられるように思ってしまいます。しかし、一度健康を崩し、思うままに自分の体が動いていかないことが知らされたとき、そこで自分の限界を感じます。健康であるということ、生きるということがどれだけ大切なことなのかを知らされるのです。それは、自分だけではなく、自分お愛するものを通しても同じです。
わたしは8年前に母親を癌で亡くしました。まさか、鉄人のような母が癌で苦しむとは思ってもいませんでした。母の傍らで、いくら泣きもがいてもわたしの力ではどうしようもできない、自分の限界を感じました。お任せするしかない、いのちを作られた方に、母のこの終わりをお任せするしかない…どうすることもできないわたしは神さまに任せる祈りをするしかありませんでした。今、わたしは、あのときの、死を迎えている母の傍らでの祈りが神さまに聞かれたと信じています。それは、今、わたしがこうして、自分として歩むことができるからです。生きているからです。
死がわたしたちの生の終わりではない。死がわたしたちの歩みの終着地ではないのです。イエスさまの前で、子どものために訴えて祈るこの母親の切なる求めを通して、わたしたちは、死の向こう側、永遠のいのちへの希望をのぞき見ることができるのではないでしょうか。世間のしきたりや宗教がもたらすイデオロギー的なおおきな壁などに屈伏することなく、イエスさまの前で徹底的に自分を崩しているからです。この方こそ、死に打ち勝ち、死を支配し、死を超えて復活のいのちを生きる方であることを、彼女の訴えは私たちに教えてくれるのです。彼女の徹底的に自分を崩しながらこの方にしがみつく振る舞いを通して、たった唯一、主、イエス・キリストを通して流れる永遠のいのちへの希望を私たちにくださっているのです。
この世で力あるもの、目に見えてそれらしく見えるものは、この世での生だけが大切なものとしてしまいます。死が終わりだから、この世で勝ち取った人生だけが成功した人生であると語り聞かせるのです。死の向こう側、いいえ、今も死に勝ち取って生きる本当のいのち、永遠のいのちの延長線上に自分が生きていることを見る人は、たとえ自分が小犬のような扱いを受けても、そこでめげた歩みをしないのです。自分に与えられているいのちが死から甦った方によって与えられたいのちであることを知らされる人は、いかなるときにもいのちに対して絶望しません。絶望しても直ちに立ち直るのです。命を与えてくださる方が日々の自分の歩みの源となってくださっていると信じるからです。
主が、今、多くのことを抱えているわたしの人生に介入してくださるということ。この方がわたしと関わってくださるとき、わたしの心は砂漠のように枯れ果て、病で苦しむ、愛する者のためにたいしたことなどできない者であるけれど、しかし、主が介入してくださるがゆえに、私たちは新しいいのちの延長線上にいるということを、今週も忘れずに生きようではありませんか。主が咲くはずのない砂漠のただ中で咲いてくださったために、わたしも、砂漠のようなわたしの人生も、新しいいのちの持ち主である復活の主のゆえに花が咲くのですから。
祈ります。
私たちのいのちの源でおられる神さま、あらゆる苦しみに出会わされるときに、私たちは自分たちの力で何とかしようとがんばって、それがうまくいかなかったらおかれた状況を嘆いてみたり、他者のせいにしたりして、苦しみから逃れようとしてしまうときが多くあります。しかし、今日、病に伏している子どものために、イエスさまの前で切に新しいいのちを求めているこの女性の姿を通して、私たちの苦しみをイエスさまに持っていけばいいんだ、ということがわかりました。イエスさまだけが私たちの置かれた苦しみを解決してくださり、たとえ、私たちが苦しみのただ中におかれているとしても、その中から新しいいのち、永遠のいのちを望み見て生きることができることを知らされました。わたしの苦しみと向き合ってくださるイエスさまがおられる。世間の目やこの世のしきたりなど意識して、自由に行動できなかったわたしをイエスさまに向かい合わせてくださったことを、心から感謝します。今週、また、私たちは苦しみにあっている人たちに出会いながら生きることでしょう。その人たちに、今わたしたちがいただいた喜びを伝えながら生きる者として用いてください。神さまの福音を、祝福を隣人と分かち合いながら生きる者としてここから遣わせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
詩編1篇 『幸いな人』
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡りこれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」
この詩編第1篇では二つのタイプの人間が対照的に捉えられています。一つのタイプは神さまの教えに従う人のことで、もう片方のタイプは神さまの教えに従わない人のことです。神さまの教えに従う人は幸いな人として語られますが、神さまの教えに従わない人は罪ある者として語られています。幸いな人とは傲慢な者とともに座らない人、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人のこと。この人は、まるで水のほとりに植えられた木のようであって、ときが巡りこれば実を結び、葉もしおれることがない人のことです。